「投資家がお金よりも大切にしていること」

2018年5月19-20日     藤野英人

 

 筆者は投資家・ファンドマネージャーとして、レオスキャピタルワークスで活躍。成長する日本株に投資する、「ひふみ投信」を運用し、こうパフォーマンスを上げ続けている。

 本書では、誰よりもお金について真面目に向き合ってきた筆者の、お金の哲学を知ることができる。お金が大好きなのに、お金について話すことを嫌う我々日本人にとっては、自分たちの考えを見つめ直すいい機会を与えてくれる本だ。

 

 日本人はお金が大好きだ。しかし、お金について深く考えているかというと、決してそうではない。証拠として、日本人の個人金融資産がどの様に使われているかをみてみよう。なんと、金融資産1,400兆円のうち半分強が現預金だ。預金も、銀行が融資にまわしているので投資ではあるのだが、そこまで考えて預金している人はいないだろう。日本人は、自分のお金をなんとしても守りたいが故に、お金を大事に抱え込んでいる。これは、お金を殺しているようなものではないか?

 

 なぜ、日本人はこんなにもお金そのものに執着するのか?その答えの1つとして、筆者は「清貧の思想」を上げる。「清貧の思想」とは、貧しく清らかな心を持つことこそが尊いとする考え方だ。この考え方を、日本人は無批判的に吸収してしまっている。

 海外では、「金儲け=悪」という考え方はあまりなされない。むしろ、自分が稼いだお金を積極的に活用して、社会に貢献しようという考え方が中心だ。

 日本人はもっと、お金の使い方、社会への参加の仕方について、主体的に考えるべきだ。

 

 お金についての主体性のなさは、まず消費の仕方にあらわれる。多くの日本人は、自分たちの消費が経済をつくっていることに無自覚だ。

 企業は、人々の需要に応えて供給を行う。人々が自らの価値観を持たず、無意識な需要を満たし続ければ、「早い・安い」サービスを提供する企業ばかりが生き残る社会となるだろう。

 消費に自覚的であるということは、社会のあり方に自覚的であるということだ。

 

「きみがモテれば、社会は変わる。」

2018年5月13日 宮台真司

 

◼️経済回って社会回らず

 経済成長を重視し過ぎた日本は、もはや社会が回っていない。一方、西洋では、グローバル経済と社会を両立させる試みがなされていた。経済・生産・企業といった観点とはことなる、消費やダイバーシティといった新しい社会運動がはじまっていた。

 

◼️うまく生きればモテるか

 社会の問題・他人の問題を自分ごととして捉えず、他人任せに上手く生きていくような生き方では、誰からも承認されない。

 利他的な人間こそ、尊敬され、幸せになれる。

 資本主義の流れや、国家に社会を任せるのではなく、自分たちで社会を選択する。市場原理主義者たるネオリベなどもってのほかだ。

「宮台教授の就活原論」

2018年 5月8-13日 宮台真司

社会学者である宮台氏による就活本。就職活動に直面する学生向けに書かれている。

 

◼️適応力が求められている

 日本の新卒一括採用は、終身雇用を前提とし、企業が学生を一からじっくり育てるシステムであった。それゆえに、学生を採用する基準は、即戦力として使える換金可能なスキルではなく、教養・人柄といったポテンシャルであった。

 現在でも、ポテンシャル採用である点は変わらないものの、その背景は変わってきている。グローバル化の進展により、経済界は流動性を増し、企業は変化に対応可能な組織づくりを求められているのだ。変化に対応可能な組織であるためには、適応力の高い人を集める必要がある。

 

◼️はびこる自己実現主義

 就活では、仕事で自己実現を目指すことが当然のことであるかのように認識されている。しかし、仕事での自己実現をあまりにも重視しすぎるが故の弊害がある。

 そもそも、仕事で自己実現というのは最近の考え方だ。

  第一次世界大戦後の先進国は、大量生産の時代にあった。大量生産を支える労働者たちは、全体の見えない過酷な仕事に従事していたため、労働者保護のため、「フォード主義」という労使協調路線がとられる。仕事はおもんないけど、定期的に昇給するから我慢してね、とういことだ。この時代に、仕事で自己実現などどのたまう労働者はいなかっただろう。

  しかし、第二次大戦後、低成長経済に突入した先進国では、定期昇給はみこめない。労使の視線は、賃金ではなく生活の質向上にむけられる。その結果、仕事=人生であるかのような考え方が広まってしまった。

 仕事自己実現の考え方も、終身雇用制度が機能していた時代は、人生にポジションな意味を与えていたかもしれない。だが、現代ほどに経済の流動性が高まっている場合、仕事での自己実現だけを目指す、硬直的な姿勢は危険だ。

  会社が自己実現・承認の場として機能しなくなるなりつつあるため、会社以外の場で、自分のベースとなる共同体を持つ必要がある。

 

◼️自己実現よりもホームベースをつくれ

 人間には、感情な基盤となる共同体が必要だ。共同体とは、家族・親族・地域の人々などである。しかし、経済成長を追い求め続けた日本では、あらゆるものを市場から調達せよという圧力から、共同体は空洞化の一途をたどった。ついには、会社が共同体としての機能を提供することもできなくなった。

  自己啓発本が売れるのも、人々が感情的安定の場を失ったからではないか。自己啓発本に感情的癒しを求めてしまうのでは、根本的な安定を得ることはできない。

 

まとめ

・市場、国家に依存しきった日本では、もはや社会が機能不全に陥っている

・そんな社会で、幸せに生きるためには、依存をやめ、自立するしかない

・社会、他人の抱える問題を自分ごととして捉える。立派な大人になろう

「どうすれば愛しあえるの」

2018年 5月3日-5月7日

宮台真司 二村ヒトシ

 

◼️性愛能力の劣化

 人々の性愛能力が劣化している。恋愛に対する姿勢の中心が、自己実現・承認や損得感情となってしまっている。恋人との関係を、自分の社会的ステータスや人生設計の中でしか捉えていない。自分の「心の穴」を埋めるためにしか付き合っていない。

 なぜ、このような状況になってしまったのだろうか。

 社会的価値観が人々の思考に浸透しすぎたからではないだろうか。それは、損得勘定・ポジショニング・法遵守などだ。こういった思考は、「社会の中」でのみ適用されるものだった。性愛や学びなどは、「社会の外」だったはすだ。しかし、文明化の進行により、それらが「社会の中」に留められてしまった。

  その結果、性愛は自己実現・自己承認のツールになりさがってしまったのだ。

 

◼️コントロール型恋愛

 性愛は、相手の感情を自分の心に映し、同じ感情に感染する、という「シンクロ」体験だった。

 しかし、見せたいところだけをみせ、見たいところだけをみるSNS的コミュニケーションの広がりによって、人々の感情は劣化している。

 感情の劣化した人々は、性愛にビジネスマインドを持ち込んでしまう。相手を、シンクロすべき人格ではなく、コントロールすべき物格として扱ってしまう。自分の心の穴を満たすモノとしてしか捉えていない。

 「恋愛は営業と一緒」という奴。「ラインの返信を必ず求める」奴。

 しかし、恋愛は本来、法外の混沌であり、言語外の世界なはずだ。

 

◼️このクソ社会をどう生きるか

 あらゆる事柄を、ビジネス用語で捉えようとするこのクソ社会。どう生きていくか。

 ラカンは人間を3タイプに分ける。①神経症者②精神病者③倒錯者。

 ①は社会的価値観に縛られて。日々を我慢して生きている人。

②我慢しきれなくなり、徐々におかしくなった人。

③社会に適用しているフリをしている人。

 ①の人のように、社会的言語に縛られて、言語の自動機械と化してはいけない。自分は社会的価値観の中に生きているということを自覚し、倒錯者として、メタ的に生きることが自由へつながる。

 

◼️モテるためには?

・自分について多面的に考える

・一人で幸せになろうなど、無理であると知る

・自分の中の女性と対話する